宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ

Jajaバックナンバー

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小林市東方の田の神

発祥の地となった小林市東方

宮崎の田の神さあのルーツになったと思われる最古の像が、小林市東方新田場に現在も丁寧に祭られている。享保5年(1720年)2月、本田権兵衛という人によって建てられたと刻まれているこの田の神さあは、(いかんそくたい)をまとった神官の姿をしており、牡丹の花をあしらった台座に腰掛けた、堂々とした像だ。

神官型の田の神さあとしては、もっとも古いものであることから、この像が神官型の最初のものであった可能性が高い。小林市の田の神さあの半数は神官型であることから、この一帯は、宮崎の田の神さあのふるさとであると同時に、神官型像のふるさとと言ってもいいのだろう。

威厳のある姿なのだが、顔立ちはふっくらとして、目元は穏やかで温かい。田の神さあは、最古の時代から民を見守る慈愛の心を込めて祭られてきたのだろう。

紅殻(べんがら)をまとった僧衣立像型

同じく小林市東方にある通称「仲間の田の神さあ」は、新田場の像と同じ時代の享保7年(1722年)に建てられている。こちらは、ほぼ仏像といってよい姿をしている僧衣立像型で、この形のものはほかに例がない、非常に珍しいものだ。宝永2年(1705年)に建てられた最古の田の神は、明治初期の(はいぶつきしゃく)の影響で元の姿を失ってしまっているが、かつては修験僧の姿をしていたといわれている。

そのことからすると、この宮崎最初期の像が僧侶の姿をしているのは、むしろ自然なことなのかもしれない。この仲間の田の神さあは、紅殻という赤い顔料を使って化粧されるのも特徴で、淡くくすんだような朱色に全身を包んだ独特の雰囲気を放っている。

仲間の田の神仲間の田の神
唐獅子の彫刻を施した台石の上に立つ仲間の田の神は、蓮の葉をかたどった冠をかぶり僧衣をまとった、非常に珍しい姿をしている。地蔵型の一種として、特に僧衣立像型と呼ばれるが、同様のものは、ほかにほとんど例がない。

新田場の田の神と、ほぼ同時期の享保7年(1722年)に建てられている。

増産のシンボルとして

この二体の像が、宮崎の田の神さあのルーツであることは確かと思われるのだが、なぜこの地が選ばれたのだろうか。二体が鎮座する小林市東方には有名な陰陽石がある。浜の瀬川の流れで自然に形成された高さ17・5mにも及ぶ陽石は、古くから増産のシンボルとして参詣者を集めてきた。そうした土地柄が、宮崎で最初の田の神さあの出現に関連がありそうだ。

陰陽石は、現在のように観光地としてではなく、もう少し切実な増産の願いを込めて参詣されていたのだろう。えびの市に多い農民の姿をした田の神像の傘の部分は、明らかに陽石に通じるものがあり、頭に触れると子宝に恵まれるという言い伝えのある田の神さあが多いことからも、同じような思想がうかがえる。田の神像を最初に建てる地として、この増産への祈りの場所が選ばれたと考えられるのかもしれない。

小林市の陰陽石小林市の陰陽石
浜の瀬川の流れが岩盤を浸食してできた陰陽石は、生産の神、子宝の神として古くから信仰を集めてきた。

宮崎の最古の田の神が、この陰陽石にほど近い場所に出現したのも、増産への祈りが込められているのだろうか。地元には美女に見ほれて、竜が天から降りてきたという伝説があり、竜岩と呼ばれることもある。