宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
古代のクニ・西都原

記紀に繰り返し語られる天皇一族と南九州の女性の婚姻は、大和と日向の結びつきの強さを物語る。仁徳天皇の妃となった髪長姫は、どのような人物だったのだろうか。(写真:13号墳)

最大の古墳、男狭穂塚・女狭穂塚は
誰を葬ったのだろうか。

広域ネットワークとしての大和政権

邪馬台国がどこにあったかという論争に象徴されるように、古代、日本には各地に独立したクニがあった。それがひとつの国家としてまとまった形になったのは奈良時代以降のことで、古墳時代に誕生した大和政権は、クニ同士の広域ネットワークのようなものだったと考えられている。その畿内政権との関係の度合いを示す最大のものが、前方後円墳だ。大和の大王(おおきみ)の陵墓に用いられる前方後円墳の築造を、地方の首長に許すことで、それは中央政府とのつながりをもつ盟主権のシンボルとなった。

西都原考古博物館にスクリーン展示されている男狭穂塚・女狭穂塚

西都原考古博物館にスクリーン展示されている男狭穂塚・女狭穂塚

西都原には31基の前方後円墳群があり、このうち29基が約150年の間に作られている。前方後円墳が首長墓であることを考えると、約5年にひとつ作られるペースは謎のひとつだったのだが、最近の研究では、西都原は八つほどの異なる系列をもつ集団の共同墓地だったという説が有力になってきた。あくまで仮説に基づく試算だが、この周辺には13000人ほどの人が住んでいたとされる。

視野をさらに周辺にまで広げてみると、宮崎中央平野一帯の小丸川、一ツ瀬川、大淀川の流域には多数の古墳群があり、この一帯にある前方後円墳は140基近くにものぼる。これは宮崎県全体の8割に達する数で、日高正晴氏(西都原古墳研究所長)は「西都原古代文化圏と呼ぶべき、きわめて重要な地域で、一体のものとして考える必要がある」と述べている。これらの地域の間にも栄枯盛衰の歴史があったようで、大規模な前方後円墳の築造は、まず三世紀末から四世紀始め頃に大淀川流域の生目地方で始まり、次いで五世紀を中心に西都原、五世紀末頃からは新田原に移行している。

毎年11月に開催される古墳祭り。

毎年11月に開催される古墳祭り。三宅神社で室町時代から行われてきた山陵祭を原型とする。

最大古墳の主は、髪長姫と諸県君か

西都原で最大の規模をもつ男狭穂塚・女狭穂塚は、歴代最大の権力を有した首長墓と考えられる。女狭穂塚だけでも、一日1000人が動員されて2年半かかったと試算されるほどの大工事を実現させる被葬者とは、どのような人物だったのか。県立西都原考古博物館の北郷(ほんごう)泰道氏らは、「仁徳天皇の妃となった髪長姫と、その父である諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)ではないか」という仮説を立てている。

その根拠として、男狭穂塚と女狭穂塚は、隣接してほぼ同時に作られていることから、密接な関係が推測されること。当時、女性は出身地に葬られる習慣があったこと。記紀などの文献に具体名として登場する日向の支配者は、諸県君牛諸井だけであること。などを挙げている。仁徳天皇は、日本書紀で399年、古事記では427年に亡くなられたことになっており、男狭穂塚・女狭穂塚が築造された5世紀前半と、時代もほぼ重なる。仁徳天皇が実在したかどうかには議論があるが、有力な天皇と日向の一族に姻戚関係があったことの重要性に注目したい。

上空から。手前の森の中に男狭穂塚・女狭穂塚がある。

上空から。手前の森の中に男狭穂塚・女狭穂塚がある。

神話を共有する大和と日向

仁徳天皇と髪長姫の婚姻と同様に、大和の天皇一族と日向の女性が結ばれるエピソードが、記紀には幾度も登場する。まず高天原から天下った天孫ニニギノミコトが、コノハナノサクヤヒメと結婚する。コノハナノサクヤヒメは神吾田津姫(かみあたつひめ)の別名があるように、吾田一族の出身。吾田は薩摩半島北部の古名だが、もともとは日向の一族だったといわれており、日南市にも地名が残る。初代神武天皇も、吾田のアヒラツヒメを妃にした。九州を巡幸した景行天皇は日向高屋宮に6年間滞在して、日向髪長大田根(ひむかのかみながのおおたね)、日向御刀媛(ひむかのみはかしひめ)と二人の女性を妃にしている。

こうしたエピソードは、大和政権と日向(南九州)との融合を語るものだが、皇祖が日向の出身であることを示すかのように、記紀に日向神話の一項を設けていることを考え合わせると、大和と日向が神話を共有するべき何かの理由があったことが想像できるだろう。

男狭穂塚・女狭穂塚へ続く木立

男狭穂塚・女狭穂塚へ続く木立。