宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
鬼の窟古墳

西都原最後の首長は、王国の落日を
どんな思いで見つめていたのだろうか。

西都原古墳群のほぼ中央部に、美しく均整のとれた姿をみせている鬼の窟古墳(206号墳)は、7世紀初頭に築かれた西都原最後の首長墓といわれている。横穴式の石室をもつ当時として最先端の形式で、その源流は朝鮮半島にあるとされているが、周囲に土塁をめぐらした円墳は日本で唯一、この古墳しかない。同様に土塁をもつものとしては、石舞台古墳(奈良県明日香村)、用命天皇陵(大阪府太子町)、常心塚古墳(西都市)の3基だけで、これらは方形墳だ。国内で4基しか発見されていない形式の古墳のうち2基が、西都にあるというのも興味深い。

鬼の窟古墳石室

石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされており、この4つの古墳がほぼ同時期の飛鳥時代に築かれたことを考えると、蘇我氏と日向の何がしかの関係が想像できる。特に常心塚古墳は、石舞台古墳とまったく同じ形式で、大きさを縮小しただけのものとなっている。ここで気になるのは、西都に残る「平群」という地名だ。平安時代の『和名抄』(938年)には、すでにこの地名が登場している。古事記によると蘇我氏と大和の葛城氏、平群氏は同族とされており、葛城氏も日向とは縁の深い一族という説もある。西都原の最後の首長は蘇我氏との結びつきの中で勢力を伸ばし、その滅亡とともに西都原もまた落日を迎えた、ということなのだろうか。