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日露講和条約締結100周年記念

日露講和条約締結100周年記念
国際シンポジウム
5月19日〜22日、日露講和条約(ポーツマス条約)締結100周年を記念する国際シンポジウムが小村記念館で開催され、日露戦争研究会の松村正義会長やホホエフ駐日ロシア大使館参事官をはじめロシアやドイツ、アメリカなど15の国・地域から約150人が参加。日露戦争を国際的な視野で検証するとともに、生誕150周年にあたる小村寿太郎の功績をしのんだ。

 

国際交流センター小村記念館

国際交流センター小村記念館
小村記念館には数多くの資料が集められ、寿太郎の歩みや明治という時代について知ることができる。
日南市飫肥4-2-20-1
TEL:0987-25-1905
入場料:大人200円・小中学生100円

ポーツマス会議

日露戦争を終結させたポーツマス会議で小村寿太郎は首席全権として交渉に当たった。(左側中央が寿太郎)

飫肥藩の質実剛健な気風の中に育ち、小倉処平、安井息軒ら良き師にも恵まれた小村少年は、やがて明治日本の未来を切りひらく大外交官として、国際舞台でめざましい功績を残すことになる。生誕150周年、ポーツマス条約締結100周年を迎えた今年、あらためて、その志の大きさに思いを寄せてみたい。

飫肥城大手門からゆったりと広がる通りの周辺には、かつての武家屋敷の名残りをとどめる美しい石垣が続く。どの城下町でもそうであるように、飫肥藩も大手門の近くには身分の高い藩士が住む比較的広い屋敷があり、それからだんだん区割りが小さくなって、やがて町人たちの住む町場へつながっていく。

明治の日本を代表する外交官小村寿太郎の生家は、その武家屋敷と町場のちょうど境目近くにあった。寿太郎は、1855年9月、この屋敷で十八石の微禄ながら藩の物産方(物流関係の責任者)と別当(現在の町長役)を兼ね、町民の信望も厚かった父・寛と母梅の長男としてうぶ声をあげた。武士としての厳格さをもちながら、他藩や商人たちとの交渉に長け、廃藩後は木材などを扱う飫肥商社を設立するなど広い視野をもっていた父のもとで、少年寿太郎の目は早くから外の世界を見つめていたのかもしれない。

平成16年に復元された生家

平成16年に復元された生家。藩主の陣屋にもなるほど大きな家だったが、実際に家族たちが暮らすのはそのうちの一部分だった。

正直という気風の中で

司馬遼太郎が著書『跳ぶが如く』の中で、「飫肥藩の士風は、古来武張ったり、壮士めいた気分のものよりも正直という、いわば地味な徳目に主眼が置かれていた」と書いているように、飫肥藩の武士たちの気風はきわめて質実なものだったといわれている。そして日々の鍛錬と子弟の教育を重んじた。その舞台となった藩校振徳堂では、若き日の安井息軒が教鞭を振るっていた。後に江戸で三計塾を開いて陸奥宗光など2000人の俊英を導き、幕府の昌平坂学問所教授にも迎えられた息軒の教育は厳しく、子弟らは早朝から深夜まで鍛えに鍛えられた。

寿太郎の成績は抜群で、若くして藩主の秘書のような役割を果たしていた飫肥藩きっての俊英、小倉処平の目に止まる。後に「飫肥西郷」と呼ばれ、その器量の大きさを慕われた小倉は九歳年下の寿太郎を弟のように可愛がり、そのすすめもあって飫肥藩は寿太郎を長崎へ英語留学に送り出す。その後、上京して大学南校(東京大学の前身)に入学し、20歳の時に文部省第1回留学生として米国ハーバード大学へ留学。帰国後、大阪控訴院判事、その後大審院判事を経て1884年(明治17年)に外務省へ入省した。その後10年ほどは活躍の場も与えられず不遇だったが、外務大臣陸奥宗光に認められて北京に赴任して以降は、激動の時代を駆け抜けるような生活が始まる。

藩校振徳堂の教堂

現存する藩校振徳堂の教堂。ここで安井息軒や父の安井蒼州らが教鞭を振るい、多くの俊英を育てた。

日本外交のエースとしての活躍

外交官小村寿太郎の三大功績は、日英同盟の締結(1902)、日露講和条約(ポーツマス条約)の締結(1905)、独英米など列強との平等な通商条約の締結(1911)であるとされる。日英同盟はその直後の日露戦争から第一次世界大戦終了時までの日本の外交政策の基盤となった同盟であり、平等通商条約の締結は、日本が初めて関税自主権を回復し、江戸時代以来の弱者としての立場を解消し、真に近代国家として世界にその存在を宣言することになった。

中でも首席全権大使として臨んだポーツマス会議は大変な難交渉で、海軍ではバルチック艦隊が敗れたとはいえ、当時満州の原野で日本軍と対峙していたロシア陸軍は、あくまで戦争継続とのロシア皇帝の命で、続々と兵力を増強していた。すでに日本は国力が尽きているにも拘わらず、事情を知らない国内では戦勝気分が盛り上がり、英雄のように日本を送り出された寿太郎が、賠償金もなくどうにか戦争を終わらせた時、国内では検挙者が7万人にものぼる焼き打ち暴動が起きていた。この時、留守家族がいた外相官邸も襲撃を受ける。寿太郎はすべてを承知していた上でポーツマスに出向き、戦争終結という一点に全てを注いだのだろう。

日本が困難な状況になるたびに、外交のエースとして送り出された小村寿太郎は、交渉の舞台でも正直で誠実、そして熱血の人だったといわれる。小柄な体から気迫をみなぎらせてぶつかっていく彼は、相手からすれば手ごわい存在だったのだろうが、そのけれん味のない正直さと誠実さは常に大きな実を結んだ。1906年(明治39年)、宮崎中学(宮崎県立大宮高校の前身)の生徒を前に語ったという「一分間演説」の言葉は、今でも知られている。
「諸君は正直であれ。正直ほど人生にとって大事なものはない。」
国益と国益がぶつかり合う外交の場で、振徳堂で教え込まれた儒学的な正直さを貫いた小村寿太郎は、サムライの魂をもつ外交官だったといえるだろう。

飫肥場大手門と小倉処平

左)飫肥場大手門は町のシンボル。初代藩主伊東祐兵が1588年に入城して以来、300年の間、飫肥はこの城を中心に栄えてきた。
右)飫肥西郷と呼ばれ、その大器を慕われた小倉処平。寿太郎を弟のように可愛がったという。

小村寿太郎銅像小村寿太郎の生涯
1855年 飫肥藩士小村寛の長男として生まれる。
1861年 (6歳) 藩校振徳堂に入る。
1867年 (12歳) 大政奉還
1869年 (15歳) 小倉処平に連れられ長崎に留学。
1870年 (16歳) 大学南校入学。
1875年 (20歳) 文部省留学生として、ハーバード大学留学。
1877年 (22歳) 西南戦争。小倉処平自刃。
1880年 (25歳) アメリカより帰国。翌年、大阪裁判所判事。
1884年 (29歳) 外務省入省。
1893年 (38歳) 外務大臣陸奥宗光に認められ北京公使館臨時代理公使に。
1901年 (46歳) 第1次桂内閣外務大臣。
1902年 (47歳) 日英同盟締結。男爵。
1904年 (49歳) 日露戦争勃発
1905年 (50歳) 首席全権としてポーツマス条約締結
1906年 (51歳) 外務大臣を辞任。
1908年 (53歳) 第2次桂内閣外務大臣再任
1911年 (56歳) 独英米等と平等通商条約締結。不平等条約の撤廃(関税自主権の確立)。11月26日神奈川県葉山で没。12月2日外務省葬。